社会福祉法人 尽誠会

《よもやま世間噺(8)》

=縄文文化考=

 昨年度の思いがけなく嬉しい朗報として、突如飛び込んできた話題のひとつに、『北海道・北東北地方の縄文遺跡群の世界遺産登録』という実に悦ばしいニュースがありました。近年続けられてきた民間(行政協働)の誘致活動が功を奏した結果として、世界文化遺産への登録が決まったのです。近年、日本国内の様々な自然環境や文化遺跡の数々が、世界遺産という称号を被せられて、一躍脚光を浴び、無名だった土地が、いきなり意外な観光地と化す現象が相次いでいるように思われます。

 それまで見向きもされなかったような遺跡や自然環境が、ユネスコのお墨付きを貰う段取り(手続き)を経ることで、思い掛けない新たな価値観が見直されて、穴場的な観光地に再編される怪現象が相次いでいるように思います。そんな新たな名勝地が全国各地にあちこち点在しています。

 縄文時代と呼ばれる時期は、日本史の中でも圧倒的に長く、原始的と表現されるような狩猟生活を営む暮らし向きの中で、狩りで得た獲物や森林で拾った木の実等を食料として蓄え、独特の複雑な紋様の縄文土器(火焔様土器)がさかんに造られていました。併せて土偶と呼ばれている「祈り」対象の土人形も盛んに創られていたようです。縄文時代の不思議として、縄文遺跡が発掘される土地柄は、大方が東西南北に細長い日本列島の中で、寒冷地と云うべき北日本に多く、自然に同化して暮らす狩猟生活には厳しい環境だったかなと思われます。当時は気候が今と違って、温暖だったのかなあとも想像されるのですが、依然、謎のひとつでもあります。私達の世代が日本の歴史を学び始めた頃には、今や有名な遺跡になった青森の「三内丸山遺跡」やら、八戸の「是川遺跡」等の名前はまだ登場せず、津軽地方の「亀ヶ岡遺跡」だけの時代でありました。弥生時代の象徴となるのは、静岡の「登呂遺跡」くらいのものでした。佐賀の「吉野ヶ里遺跡」の登場は、ずっと後世になってからでした。縄文遺跡の発掘調査を題材として扱った「ライアの祈り」という映画では、八戸の是川遺跡を舞台として、発掘に関わる主人公達の物語が展開され、その中で縄文時代の長く平和な暮らし向きへの想いを馳せる場面が美しく描かれていました。狩猟生活とはいっても、争い事の少ない非常に平和な桃源郷を思わせるような世界が長く続いたようですね。

 

 

傍や転じて農耕文化が芽生えてきた弥生時代となると、日本列島の中でも温暖な土地柄に、多く分布していることが判ります。土偶の形とて是川遺跡から出土した有名な「合掌土偶」は、実は合掌の祈りを表現したものではなく、当時一般的だったといわれる「座産」の様子を表現していたようです。出産に対する畏敬の念を標準的にもち、表現していたのでしょうね。土器は縄文時代の複雑な造りとは打って変わって、弥生時代ではとてもシンプルな形状で、用途重視の使い易そうな形に変貌していくのでした。祈りの対象とする(?)人形も、土偶から埴輪に変化して、より写実性を加えていきました。

 日本の古代文明はこの後に飛鳥時代を迎え、中国との交流が始まって、仏教文化が伝来することにより、精神性が昂じて文字が加わることで、歴史の流れが記述され、後世に遺る文明国家が形成されていったのです。律令国家に発展して、人々の行動規範が設定される中、文字が発達することで、歴史の記載が始まり、社会を支配する階級制度まで芽生えて、部族間の争い事が頻繁に繰り返されることになっていきます。木造建築技術が発達して壮麗な寺院建築を競い合い、祈りの対象とする仏像も、美の極致を追求する境地に達していくのです。本能の赴くままに暮らしていた筈の縄文の世の中では、争い事もなく(??)平穏な暮らし(?)に徹していられたものか。果たしてその通りの理想郷が形成されていたのでしょうかね。