社会福祉法人 尽誠会

《よもやま世間噺(10)》

= 健さんとの出逢い秘話=

「高倉健」という日本の映画史に燦然と名を残す名優に出逢い、交流する機会がありました。苦み走った顔立ちの風貌と、無骨なまでの寡黙さや不器用さを自然体で漂わす「売り」を持つナイスガイの映画俳優といえる存在です。「男が男に惚れる」という台詞がピッタリ当て嵌まるような典型の「漢」 と呼ぶに相応しい存在だといえるでしょう。俳優稼業の走りは任侠物の主役を演じるキャスティングからでした。斬った・張った~殴る・蹴る等のアクション・シーンが格好良くて、東映所属の劇画専門俳優でありながら、少年向漫画のヒーローを応援するような視線を送り続けていたものでした。当初の代表作「昭和残狭伝」やら「網走番外地」等の主役が塡まり役でした。  そんな感覚を顕わに憧れ続けてきた「健さん」に出逢えて、交流する機会に恵まれたことがありました。とある映画での共演(ロケ現地募集のエキストラによる出演)という絶好の機会が巡ってきたのでした。

 

 

    福岡県中間市(筑豊炭鉱地帯)出身の彼(父親は炭鉱勤務の鉱夫頭)が俳優になったのには、至極偶然の成り行きのようですが、当初の目標は意外にも貿易商を目指して、明治大学に進学してはみたたものの、人の出逢いの偶然の弾みで東映に入社することとなり、持ち前の風貌を見込まれて、立振舞の演出を凝らし、任侠路線の俳優を「当たり役」であるかの如く抜擢される経緯となったようです。任侠物の主役を張るまでに成り上がった暁に、正統派ドラマの路線というべき「遙かなる山の呼び声」やら「幸せの黄色いハンカチ」等の主役を張って、多大な好評価を得た後は、トントン拍子に次々と分野を拡げていき、さらにシリアスなテーマというべきの「八甲田山」や「動乱」等の軍人役を演じながら、晩年での代表作となったような「鉄道員(ポッボヤ)」や「ホタル」と共に遺作ともなった「あなたへ」等でも、一貫して「寡黙で不器用」なイメージを崩すことなく、「高倉健という虚像」を演じ切っていたように思います。

 

 

 傍や健さんとの出逢いとなった「動乱」と称する映画に、エキストラで出演した小生はというと。当時、医学生時代の部活(籠球部)の冬休み練習で、旭川の地に居残っていた時期に、エキストラのバイト(日当一万円位)話が舞い込んできた折。早速美味しい話にチーム数名と応募し、採用されることになりました。雪に見舞われた「2・26事件」の陸軍省の建物に見立てた旭川郷土博物館でのロケ現場では、撮影当日に衣裳(軍服)合わせや小道具(鉄砲・銃剣)の配給に次いで、軍人役らしく短髪・角刈り(長髪カット)を強いられて、泣く泣く従う他ありませんでした。それを契機に最近でも短髪が病みつきになってはいますけど…。いざ実際の撮影の場面では、当然のことながらエキストラに台詞等はある筈はなく、横整列や敬礼&献げ筒及び縦隊列行進の練習を経て、いよいよ本番の撮影に入りました。寒々とした天候の中、幸いなことに「NG」が出されることは無く、順調に撮影が進行し、2日間のロケ日程が消化されました。終了後の監督挨拶の後、それぞれが散り散りに帰宅の途に就く段階での思い掛けない出来事で、健さんを取り囲むように人溜まりができていました。何と健さん自らがエキストラ連中を握手で見送っていたのでした。小生も当然人集りに加わって、健さんと握手するチャンスを得ました。意外と華奢で柔らかい小さな手だなとの感触でした。体型は大柄でごっついのに、人夫等のごっつい手とは異質の代物でした。それ以上にエキストラ達への健さんの気遣いに感激しきりの体験となりました。

 

 

 

 寡黙な健さんが語る名台詞が遺っています。

≪言葉というものはいくら数多く喋っても、どんなに大声を出しても、伝わらないものは伝わらない。そういう想いはありますね。自分の中では言葉は少ない方がむしろ伝わるというふうに思っています≫

 ー想いを伝えるためにー

  

 

 因みに健さんが神に召されて昇天し、幸せに逝った筈であろう命日となったのは、錦秋もすっかり深まった「11月10日」のことでしたが、その日は取りも直さず小生の生誕記念日(誕生日)に合致しており、忘れることなんて有り得る筈のない至高の「健さん」昇天祈念日となったのでした。