社会福祉法人 尽誠会

《よもやま世間噺(5)》

 =神(仏)様の贈り物=

 人の一生においては様々な心のストレス・不安を抱えながらの生活を余儀なくされて、「生老病死」の苦しみに晒されます。「生きる」も難儀。「老いる」もまたさらに苦難の道。ましてや「病める」 果てには身体の痛みや辛さやらで、苦悶の極みに達した挙げ句、「死ぬる」ことにより、あらゆる苦しみから解放され救われることになるのです。

 「生きながらえる」中では、「老いて」 「病んで」「死に逝く」幾多の紆余曲折の過程を経ることで、「死の恐怖」を克服できる原理が、老いる中での「呆け」という認知障害に助けられることで、死する怖れへの緩衝剤として、襲いかかる不安や心配事を和らげては払い除けることにより、「神様の贈り物」の効用が賦与されるのです。天からのお恵みによって、悟り紛いの教えを啓く(?)ことで、「死生観」すら一変し、過去の辛く嫌な思い出をも忘却の彼方に葬り去るのです。恍惚としたエクスタシーの境地に浸りながら、思考放棄状態に身を委ねる中で、浮き世の憂さや煩悩が一斉に解き放たれるや、解脱の域に入り、極楽浄土への昇天に備え、泰然自若としてお迎えを待つ態勢に入れるのです。

 

 

 傍や「仏様からの贈り物」 はというと、最も身近に御座しますのが「観世音菩薩」様でしょう。観音様は読んで字の如く「音」を「観る」菩薩様です。則ち、世の中の音とは、私達の様々な悩みの音です。例えば不満があると私達は、「ブーブー」「ブツブツ」言いますよね。また苦しい目に遭うと、「フーフー」「ヒーヒー」と喘ぎます。さらに辛くなると、「オーオー」「エンエン」と泣きます。菩薩様はそんな娑婆の「音」に耳を傾けて拾い集めながら、悩み事の実態を観察して「観定める」のです。菩薩様はそれにただ同情するだけのお方ではありません。その人の悩みが理に合ったものかどうかを極めて冷静に観るのが「観」という意味なのです。よく私達が願い事や悩み事を仏様にお願いすれば、事が解決すると思って手を合わせますが、その願いが正しいのか正しくないのかを判断するのが観音様の「観」なのです。手を合わせるのにもいろんな形があって、悩み事があるから合掌する気持ちは判りますが、ただ苦しい目に遭ったからといって、自分自身の反省や戒めもなく、何でもかんでも仏様にお願いしているような姿を見ると、この人の願掛けを叶えて上げるのが、果たして本当に救いになるのかと考えさせられるところです。何故だかか次第に仏教に帰依するお坊さんの御説教みたいな趣の物言いになってきましたが、ただひたすら念仏を唱えれば、極楽往生できると説く浄土宗のような他力本願の教えとは、一線を画する自助努力の尊さを前面に押し立てる教義と言えましょう。自己研鑽の修行を積むことにより、救われる道が拓けると説く仏様の愛は取りも直さず、成仏に導くような「仏様の贈り物」として、何にも代え難い有難き処世訓となるのでしょう。